セイラ―・ボブ・アダムソンさんの言葉 - ゼロ意識共鳴で、本当の自分に目覚め・覚醒を促し、心の平安や真の幸せへの道案内

私とは

私とは、存在意識であり、本質なのです。

私はそれ以外の何ものでもありえません。

私は永遠です。

永遠は測りえないものです。

永遠は今です。

永遠は無時間です。

なぜなら、永遠には始まりも終わりもないからです。

思考や感情は移ろうもの

気分や感情に対する執着がなければ、
それらは勝手に移ろっていきます。

それらは一時現れているだけで、止まり続けるものではありません。

それは季節が移り変わるのと同じことです。

季節と季節はお互いに対立していません。

私たちは自我という参照点を持っています。

それは思い、イメージ、思考、過去の出来事、経験から成る、観念的なものです。

経験はただ現れては消えていくだけですが、
私たちはそれにラベルを貼ります。

ある感覚が生じてくると、わたしたちはそれを、痛みだとか不安だとか、
以前のラベルに関連付けます。

ラベルを貼ることがなければ、思考や感情はただ現れては消えていくだけです。

怒りと心

「ああ、これは怒りで、私は怒るべきではない」と考えるやいなや
私たちは今まで経験した過去の怒りすべてがのしかかってきて、
圧倒的なものになり、心を支配するようになります。

そうなると、心の中で会話が止まらなくなり、
私たちは怒りと格闘し、抵抗し、
その抵抗のせいで怒りがずっと居座ることになります。

抵抗すれば、怒りが消え去る機会が失われます。

なぜなら、心が抵抗している相手は心だからです。

本当のあるがままのあなた

人間の本質は、意識であり、知る働きなのですが、
私たちはそれにラベルを貼ります。

意識、気づき、存在性、本質など、
さまざまな概念を私たちは用います。

そうした思考を止めれば、
そこには、我在り、という本来的な認識があります。

それはどのような概念にっても翻訳不可能です。

それにはいかなる始まりも終わりもありません。

それは誕生もなく、死もなく、時間もなく、肉体もなく、
心もなく、始まりもなく、終わりもありません。

それが本当のあるがままのあなたです
――――あなたは物ではありません。

それは表現し、パターン化し、生命活動をし、振動し、
形態と外形を作ります。

それはありとあらゆるものです。

つまり、物というのはすべて、
その一なる本質のパターンないし現れなのです。

私たちの問題は、その現れを真実在だと捉えてしまったことです。

だからこそ、あらゆる聖典で、それは無知と呼ばれているのです
――――それは、私たちが間抜けとか愚かということではなく、
自分の本来の状態を無視しているということです。

私たちは自分の本質を無視して、現象に焦点を合わせ、
その現象を変えたり修正したりしようとします。

森羅万象の源泉

「一」と言うと、「一」以外でもありうるということを示唆しますが、
実際のところ、「一」というのは無なのです。

さて、無が「一」であると言うことができますか?

何もなく、現象もなく、パターンもありません。

それは非現象なのです。

あなたは非現象について何か言うことができますか?

非現象が「一」だと言うことができるでしょうか?

それは無です。

それはいかなる概念によっても捉えることはできません。

それには中心がありません。

周辺もいかなる次元もありません。

だからこそ、
人々は第二のない一なるもの(不二一元)という言い方をしたわけです。

なぜなら、「一」という考えでさえ、
一つ以外もありうるということを示唆するからです。

そして無……無は一度も起こったことはないにもかかわらず、
実際、森羅万象の源泉なのです。

そして森羅万象は、他なるものとして現れている無にほかなりません。

つまり、そういう意味において、
それは森羅万象と無とを包含しているわけです。

それは対極のものどうしを包含しているのです。
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